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32
腕の中で暖かいものが小さく身じろいだ。
顔に光が当たって眩しい。潮騒の音を子守唄のようにぼんやりと聴きながら目を開けると、自分が誰かを抱いて寝てるのに気がついた。
俺は寝起きがいいからな。状況を思い出すまでに三秒もかからねえ。
俺の腕の中で安らかな寝息を立てているのはネサラだ。
これ自体は見慣れた光景だが、この前までとは違う。俺もこいつも下着さえまとわない裸だった。
ああ…あったけえな。
しみじみと抱きしめて、蒼い髪を撫で下ろす。
……ずいぶん久しぶりにゆっくり寝た気分だ。
夢にお袋が出てきたな。ガキのころの夢だった。
洗濯物を干すお袋のそばをちょろちょろ飛んで、少し離れては俺を見て明るく笑うお袋を確かめて、また飛んで……。
はは、こうして思い出したら、確かに俺は甘ったれたガキだったんだな。
台所ででかい鳥や魚をさばきながら、よく言われたもんだ。
『いいかい? やり方をよく見ておくんだよ。料理の得意な人を好きになるとは限らないんだ。おまえの大事な人がお腹を空かせた時に、ちゃんと作ってあげられるようにね』
俺はそんなものかと思いながら、お袋の腰にまとわりついて話を聞いてたっけ。本当に懐かしい。
俺と同じ色の目で、体格が良くて、腕っ節の強い女(ひと)だった。風邪をひいただけだと思ってたのに、まさかあんなにあっけなく逝っちまうなんてな……。
人の運命ってのはわからないもんだ。
だから、後悔がないようにしなけりゃならねえ。そう思ってたのに、もう何回も失敗しちまってるけどよ。
……こいつを取り戻せてよかった。首筋に感じる健やかな寝息まで愛おしくて、俺は頬に触れる滑らかな髪に顔を埋める。
寝顔はあどけないんだよな。とても狸親父が揃ったベオクの高官と舌戦で戦り合う姿と同一人物とは思えねえぐらいだ。
殊に無茶なことを要求してくる連中には容赦がなかった。切れ長の目も舌鋒も冴え冴えとしていて、最初は舐めて掛かってきていた連中がネサラ一人に翻弄され、最後には屈辱にまみれた表情で頭を下げる姿には何度も胸がすく思いをしたもんだ。
それは大抵、俺だったら怒鳴りつけて結果なく終わっちまいそうな場面で、あとで反省したさ。交渉事でこいつに甘えっぱなしになっちゃいけねえ。俺もネサラのそんな場面での冷静さを見習わなけりゃいけねえとな。
蒼い髪の中に、まだネサラの体臭が残っていた。少し甘い、ユクの花に似たネサラの欲情の残り香だ。
こいつは香油好きだが、どんな香油よりいい匂いだと思う。
「……?」
「起きたか?」
ネサラが少し身じろいで、俺は額に口づけを落としがてら訊いてやった。まだ夢の中だな。
切れ長の目が開いたのは僅かな時間で、またすぐに閉じられる。この様子じゃ俺がいっしょにいることも気がついてねえかもな。
「眠いか?」
「…む…い……」
耳元で囁くと、ネサラは夢うつつの声で答えてまた寝ちまった。
最初、朝食の席でウルキに「鴉王は寝起きが悪いようです。側近であるニアルチ老が…苦労しています」そう聞いた時は信じられなかった。フェニキスに招いた時はこんなこと一度もなかったからだ。
だが、今は違う。これは俺に気を許してる証拠だと思ったら頬も緩んじまうぜ。
起こしちゃ可哀想だと思いながら慎重に腕を回して抱きしめると、しなやかな躰は何の抵抗もなく柔らかく俺に添い、ぴったりと合わさった滑らかな肌が気持ちよかった。
ネサラの肌は俺よりも水気を多く含んでるようで、しっとりしていて肌理が細かい。女のような豊かな丸みや柔らかさはなくても不満はねえな。こうして裸で抱き合うと、いつまでもこうしていたくなるような心地良さだ。
小鳥の声と窓から入る光で大体の時間はわかる。夜が開けてからまだ間もないな……。
このままこいつが起きるまで抱きしめていようか? 昨夜の甘く激しい乱れっぷりを思い出すと、俺の顔を見たネサラがどんな顔をするか見てやりてえ気がする。
恥ずかしそうに堪えるところも、我を忘れて上げた嬌声も、むせび泣くように振り絞ったよがり声も、なにもかもが耳に残ってる。
暴かれていく躰と感覚に戸惑いながら、とうとう泣きながらでも必死に応えてくれた姿を思い出すとまたいらんところに血が集まりそうになって、俺は慌ててネサラの髪の中に埋めていた顔を上げた。
――いかん。このままじゃ朝っぱらから襲い掛かりそうだ。一旦離れた方がいいな。
そっと離れてくったりした身体を楽な姿勢で寝かせて、長い髪が邪魔にならねえように上に流してやった。
それでも寝顔は安らかだ。閉じたままの長い睫毛は震えもしねえ。離れる時にちょっとぐらいはぐずって欲しいなんて思うのは、俺の勝手だな。
ゆるく開いた唇からちらりと見える白い歯まで愛しくて、俺は自分でも自分が馬鹿なんじゃねえかと思うぐらい幸せな気分で、触れるだけの口づけをした。
上掛けを肩までかけてやり、もう一度前髪を撫でつける。それから窓を開けて夜明けの太陽を眺めながら伸びをすると、俺はさっさと着替えて汚れ物を片手に窓から飛び出した。
突然現われた俺の気配に驚いた小鳥たちが慌てて離れて抗議する。ったく、あいつらは同じ鳥の仲間だってのに俺には冷たいぜ。鷺やウルキ、ネサラには甘ったれなくせに。
……いざとなったら俺が平気で食うからなんだろうけどよ。
さて、とりあえず朝飯の準備だ。ネサラがいくら寝起きが悪くてもカーテンさえないからな。意外にあっさり目を覚ますかも知れねえ。
やっぱり初めての朝なんだからな。できりゃ目が覚める時にはそばにいてやりてえじゃねえか。
まずは厠だ。ネサラがいるとうるせえが、一人なら気楽でいい。玄関に下りて台所から適当な壷と籠を取ると、俺は水場に行く途中の茂みで用を足して手早く洗顔と洗濯を済ませ、朝飯の材料の調達に掛かった。
凝ったナントカのソースだの野菜のキッシュ、焼きたてのパンや銀食器とか、城みてえにはしてやれねえが、最近食欲が出たネサラに腹いっぱい食わせてやりたい。
滝から落ちる水を洗った壷に満たして置き、海岸のそばの森に飛んでたっぷりと実った小ぶりなオレンジを採った。あとは野いちごもな。どっちも瑞々しくて甘い、いい匂いがする。大人がたまに手入れをしてるせいか、この辺りのものは味が良くてこの一帯に住むガキはこれをおやつにして育ったんだぜ。もちろん、俺もな。
太陽が昇り始めた海が眩しい。目を細めて全身に朝の潮風を浴びながら、俺はなにを作るか考えた。
いやあ、フェニキス流の朝飯を作ってやるとはいったものの、考えてみりゃ材料がないんだよな。大抵のものは調達できるが、さすがに小麦粉やチーズは城まで行かなけりゃ無理だ。
そうなるとパンは焼けねえ。卵は…心当たりがあるからいいとして、問題は肉だ。鹿でも野豚でも狩れるが、いくら俺が大食らいでも全部は食いきれねえし、城に詰めてる連中に残りをやるにしても半端な量じゃケンカになりかねねえ。
となると……魚か、鳥か、ウサギか。あとは果物と山菜だな。
よし、この時期は山鳩が脂が乗っていて美味い。ネサラの好きな卵を調達するついでに狩るとするか。
そうと決まったらあとは行動あるのみだ。あたりをつけた山菜を採りがてら山鳩の巣を探ってよく肥えた山鳩を狩り、光に透かしてまだ新しい卵をいくつか調達すると、俺は水場で山菜と果物を洗ってから壷を回収して家に戻った。
次は調理だな。二階の気配を探ってネサラがまだ寝ていることを確かめてから、作業に取り掛かる。
湯を沸かす間に山鳩の首を落として血抜きだ。俺は鷹だからな。どうしても狩った直後に殺しちまってるから、一刻も早く血抜きをしなけりゃ臭くなっちまう。別の鍋で沸かした湯で卵を茹でてざるに上げた。春の山菜はちょっと苦いんだよな。食ってくれりゃいいんだが。
大きい鍋の湯が沸騰したら、山鳩を手順通りさばく。茹でて熱いうちに羽をむしるのがちょっと面倒だが、これは仕方がねえ。俺は根気がねえから多少残ったぐらいはかまどの火で焼いて仕上げる。
ネサラが好きなのはどのあたりの肉なんだ? 内臓を出しながら悩んで、結局腹詰めを作ることにした。
本当は米があると良かったんだが、ないものはないんだからしょうがねえ。山鳩はちょっと鉄の匂いが強いからな。こうやって腹の中に山菜やハーブを突っ込んできつめに塩を振って蒸し焼きにすれば、あんまり慣れてねえ奴の口にも合うはずだ。
頭からはいいダシが取れるから、それはあまったショウガと山菜、それから庭先に植えておいた柔らかい青菜を雑草の隙間から探して細かく刻んで突っ込んでみた。もちろんフェニキス流にスパイスも効かせてな。なかなか立派なスープじゃねえか?
一通り準備を終えて外を覗いたら、日が高くなってきた。さすがに起こす時間だな。
俺はなるべく静かに階段を上がって自分の部屋に戻った。扉を開ける時にはやけにドキドキしちまって、初めて女を抱いた朝でもこんなに緊張しなかったくせに、そんな自分に呆れたぜ。
ネサラはまだ夢の中だった。昨夜はずいぶん疲れさせちまったろうし、しょうがねえな。水を欲しがるかと思って新しい水は持って来たが、無理に起こして飲ませるのも可哀想だ。
……しかし、不思議な光景だぜ。俺がガキのころ大の字で寝てた寝台に、ネサラがいる。ネサラが気持ち良さそうに包まって寝てる大きな上掛けが、なんだかこいつを守ってくれてるようにも見えた。
ただの思い込みだな。俺のお袋なら、俺がどんな相手を愛しても認めてくれたんじゃねえかって類の。
それは外れてねえとは思う。昨夜ネサラに言った話じゃねえが、本当に、もしもお袋にネサラを紹介したら、たまげて俺が粗相してねえか、なにかあったら俺を叱ってやるなんてネサラに言いそうだ。
勝手な願いだが、そうあって欲しいぜ。俺もこいつももう両親を恋しがって泣く歳じゃねえし、実際泣いたりはしねえけど、なんつーかな……。
ネサラの言う通りだ。俺はお袋に愛されて育った実感がある。でかい図体になっても抱きついてくる俺をお袋が突き放したことは一回もなかった。いや、もちろん兵役につく前の話だぜ?
こいつには、そんな記憶があるんだろうか? そんなことを考えちまっただけだ。
ニアルチのじいさんも、もちろん白鷺のリリアーナ王妃も、鷺たちもこいつを愛していた。だが、実の親じゃなかったからな……。
俺の悪い癖だ。
知らねえことだから心配しちまう。こいつが淋しかったかどうかなんて、俺には本当の意味じゃわかりっこねえのによ。
「ネサラ」
そんなことを考えながらネサラの髪を指で梳いて呼ぶと、ぴくりと長い睫毛が動いた。
「ネサラ、もう朝だぜ」
もう一度声を掛けて、薄い瞼に口づける。我ながら今の自分の声音は、蜂蜜よりも甘ったるい自信があるぐらいだ。自分で聞いてもこっ恥ずかしいぐらいにな。
「起きろよ」
やっと声が届いたらしい。ころりとこっちに寝返りを打ったネサラの薄い瞼が震えてゆっくりと開き、その下から月のない夜空のような濃紺の目が現われた。
「よう。……おはようさん」
やっぱり、裸で抱き合ってりゃよかったな。一瞬後悔したが、おくびにも出さずに声を掛けると、もう一度目を閉じかけたネサラが自力で目を開き、なにか言いたそうに俺の頬を薄い手のひらでぺたりと包んだ。
白い手を握り、長い指に口づけたら、眉をひそめたネサラがなにか言おうとして咳き込む。
「大丈夫か? そら、水を飲め」
痩せた背中に腕を回して抱き起こすと、しばらく俺の胸元で咳き込んだネサラがようやく水の入ったグラスを受け取り、始めはゆっくりと、最後は一息に飲み干して深い息をつく。
「喉が痛い……」
「昨夜はずいぶん声を出したから喉がイカれたんだろ。あとで蜂蜜を採ってきてやるよ」
開口一番がそれかよ。可哀想なんだかちょっとおかしくて笑っちまった。
「痛いのは喉だけか?」
「……?」
「尻だよ。昨夜の感じだと、まだ腫れてるんじゃねえか?」
裸の身体はまだ半分眠りの中なんだろう。いつもより熱い。
しばらくして俺の言葉の意味がやっと通じたのか、ネサラの濃紺の目がゆっくりと丸くなり、見事なぐらいに頬も耳も赤くなった。
どうやら言われるまで忘れてたらしいな。
「な、なんであんただけ服……」
「俺の方が朝が早いからだろ。尻は痛くねえか?」
小さくなって上掛けの中に隠れながら首を振るネサラの背中から翼が出て、困った雛のようにぱたぱたと小さく動かすのがなんとも微笑ましい。
そういうところを見るとついからかいたくなるんだが、最初の朝なんだ。ここはちゃんと向き合ってやらなけりゃいけねえ。
「照れるなよ。俺はうれしかったぜ?」
「………」
「本当だ。おまえが応えてくれて良かった。辛いだけだったか?」
俯いたままのネサラの蒼い頭がまた小さく横に振られる。髪の間から見える尖った耳の赤さに胸が高鳴って、俺はこのままもう一度押し倒したい衝動を本当にかろうじて堪えた。
俺も寝台に腰掛けて、まだいやいやするように顔を隠すネサラを強引に抱きしめて囁く。
「鴉の流儀なら契りを交わした俺たちは事実上の夫婦だ。立場上で、あるいは立場を忘れてケンカをすることもあるだろう。でもその時は逃げずにちゃんと仲直りしよう。俺も我慢はしないから、おまえも我慢するな。長い人生、仲良くやろうぜ?」
昨夜は頭がいっぱいで言いそびれちまったからな。ちょっと遅くなったが伝えられて良かった。
返事を待つと、俺の胸元でしばらく黙っていたネサラが深い息をつき、ゆっくりと顔を上げてくれた。思ったとおりまだ赤いし、切れ長の目はかすかに潤んでる。
小さく開いた唇に誘われてそっと触れるだけの口づけを落としたら、応えるようにしなやかな腕が俺の背中に回った。
俺の肩口に火照った顔を埋める。そのままこくりと頷いたのが、どうやら返事らしかった。
ゆるゆると揺れる翼が隠し切れずに喜びを見せていて、それがなんとも胸に暖かくてよ、このまま受け止めていてやりたかったのに、俺の中にこみ上げたのは激情だ。
だから俺はネサラを抱く腕に力を込めて強く引き寄せ、蒼い髪に顔を埋めて言った。心からの思いを込めて。
「いいかネサラ。俺より先には死なせんぞ。この俺を本気にさせた以上、責任はとってもらわんとな」
ネサラが小さく笑う。やけに真剣な俺の声がおかしかったらしい。
ったく、本気で言ってるんだぜ? 特にこいつの場合は前科があるんだからなおさらだ。
ひとしきり笑ったネサラが顔を上げて俺を見た。合わせた視線に宿るのは、昨日までは見せなかった甘い感情だ。
「まぁ…大丈夫だろう。自分でも惚れ惚れするほどの悪運のよさだからな」
「まったくだぜ。それだけは納得する。セフェランにはどれだけ感謝しても足りねえ」
「俺としちゃ、その奇跡の杖とやらはあんたのために置いておきたかったがね。それに、俺はもう責任はちゃんと取っただろ?」
「馬鹿言え。これから先のことも含めてだぜ。それに、あの杖はおまえに使えて良かったんだ。おまえがいなけりゃ鷺は泣き暮らすし、俺は一人でてんてこ舞いだろ。なにより、あの杖を使う時、セフェランはおまえは望まないかも知れないと言っていた。それでも効果があったのは、鴉は苦労ばっかしてきたんだからよ、代表のおまえがまず強引にでも幸せになれってことだろ?」
そう言うと、ネサラがまたうっすらと目を潤ませて慌てたように瞬きする。泣きたきゃ泣けばいいさ。もう我慢する必要はねえ。まして俺の前ではな。
そのまま視線を逸らして涙を堪えてるらしい生真面目な横顔に笑って、俺は熱い頬に口づけて言ってやった。
「泣きたきゃ泣けよ。隠すな」
「断る」
「俺が見たい。おまえが笑うところも、泣くところも、怒るところは…控えめでいいけどよ」
「なにをバカなことを…」
文句を言い掛けたネサラが慌てて離れるよりも先に落ちた涙を舐め取って額を合わせ、恥ずかしがる顔を覗き込むと、目は潤んでるくせに睨み付けてきやがった。
こういうところはいつまでも変わらねえな。
「おまえはもう全部、俺のもんだ。そうだろ?」
「はン、俺の身柄はあんたよりまず、鴉の民に優先権があるんだがね。あんたこそどうなんだ?」
言われて、ぐうの音も出ねえ。確かにそうだ。俺はなにを置いてもまず「鳥翼王」だからな。
「納得したなら、離れてもらえませんかね。日のある内からだらだらと甘ったれた関係はお断りだ」
「冷てえな。最初の朝ぐらい良いだろうが」
「大抵のことは最初が肝心だ」
くそ、いらんところで頭が回りやがる。
ついこの間までは俺自身が一番べたべたした関係をうざがってたことも忘れて、俺は未練も見せずにさっさと腕から離れたネサラの魅惑的な背中を指を咥える思いでただ見守った。
「しょうがねえ。服は自分で着られるな? 朝飯の仕度は済んでるから、とっとと着替えて降りて来いよ」
この分だと、着替えを見ると嫌がられそうだ。昨夜はあんなところまで見せてくれたくせに。……いや、俺の力ずくだったにしてもよ。
俺自身こいつの裸をいつまでも見ていたらむらむらとするだけだし、さっさと退散することにしたんだが、扉を開けた後ろでどさりと重い音がして慌てて振り返る。
「ネサラ!?」
寝台から降りようとしたらしいネサラがくず折れるように倒れてやがって、本当に肝が冷えた。こいつが倒れたらどうしても不吉な方にしか考えが行かねえんだよ!
「どうした!? 大丈夫かッ!?」
いざとなったらベグニオンまでかっ飛んで、セフェランを拉致って来るしかねえ!
そう思いながら文字通り飛んで行って抱き起こすと、したたかに打ち付けたらしい腰と尻を押さえたネサラは「なんでもない」と言って辛そうな様子で俺から離れようとしやがる。
この…ッ! なんでもなくて倒れるはずがねえだろが!!
「今さら隠すな! おまえの躰はもう全部知ってるだろ!」
「ち、ちが…」
「なにが違う!?」
うろうろ視線をさまよわせるネサラの腹から、また可愛い音が聞こえた。
あ? 腹が……減ったのか??
「だ、だからちがうって言ったのに! 離れろよ!」
「ったく、飯なら飯だと言えよ。おまえはしょうがねえな。立てねえのか?」
直球で訊くと、ネサラが嫌な顔をして視線を背ける。
だが、身体の方が正直だ。ネサラの脚は完全に萎えちまってるようで、俺が手を貸して立たせても震えて体重を支えられねえようだった。
まあ鴉の脚は俺たちより弱いからな。ネサラはもう一度寝台に腰を下ろして憮然とした顔に大いに不満だと書いているが、昨夜の今朝で足腰立たねえのはしょうがねえ。
「よし、じゃあ俺が着替えさせてやるよ。いつもの服でいいな?」
気にするなと言ったって気にするだろうから、ここは俺の役得だということで好きなように構おう。そう思って着替えを取りに立とうとしたら、ネサラが俺の腕を掴んだ。見下ろした先の顔は俯いたままだ。
「なんだよ? 腹が減ってるんだろ?」
「…………」
口の代わりに、ネサラが慌てて押さえた腹が返事しやがる。ますます赤くなったネサラがおかしくて笑いそうになったが、その前に小さな、本当に消えそうな声で言ったのだった。
「先に、………行きたい」
「あ?」
「だから、先に……」
聞こえねえ。しゃがんで覗き込むと、じっとりと睨みつけてるくせに赤い顔をしたネサラがもじもじと身じろいでやっとわかった。あー…そうか、寝起きだもんな。
「わかった。掴まれ」
「………」
この分じゃ限界だろう。俺の上着を脱いで翼をしまった背中に羽織らせると、俺は先に窓から出て、俺の腕を待つ不機嫌なネサラを抱えて飛んだ。
厠はこの集落に一応あるんだが、いきなりここを離れた事情で昨日もネサラが入れなかったような有様だからな。衛生管理にうるさいこいつには不服だろうが、こればかりは外で堪えてもらった。
ついでに顔を洗って、部屋に帰って身支度だ。俺じゃじいさんほど満足の行く世話はできねえだろうが、こんなことにまで俺の手を借りることになってぶすくれたネサラの尖った唇が可愛くてしょうがねえ。
だからわざと丁寧に髪を梳いて結んでやり、服も一から全て着せてやった。俺の機嫌があんまり良かったせいか、ネサラは時々もの言いたげに睨むだけで、文句は言わずに世話をさせてくれた。
なるほどな。こうして「ぼっちゃま」が艶っぽい「鴉王」になっていく過程を楽しめるのは、世話をする者の特権というわけだ。
「やっぱりこの姿が一番似合うな。なにか欲しい装飾品はねえのか?」
「それは俺に首飾りや耳飾りでもねだれってことか? 金にあかして愛妾を囲いたがる俗物みたいなことを言ってもらいたくないね」
つい正直に言っちまったんだが、これは気に入らなかったらしいな。本気で睨まれちまって、俺は頭を掻いたさ。
参った。そんなつもりじゃなかったんだが……。
「ベオクは将来を約束した相手になにか贈るんだろ? おまえはそういうのが好きかと思ったんでな。すまねえ。おまえが喜ぶ顔を見たかっただけだ」
素直に詫びて萎えた足で椅子から立ち上がるネサラの手を取ると、厳しかった視線が少し和らぐ。
それから小さな息をついて見慣れた仕草で前髪をかき上げ、俺の手を握り返して言ってくれた。こういう時にはあくまでも視線がそっぽを向いたままってのがネサラだよな。
「あんたがベオクの真似をする必要はない。あんたが俺につけて欲しいと思うものを贈ってくれればいいだろ。もちろん、あんたの小遣いで賄える範囲でな」
「そうかよ。じゃあ、そうするぜ」
そのまま先に歩き出した俺についてきたネサラがどんな顔をしてるのか、手に取るようにわかる。
狭くて翼を広げられねえし、階段を転がり落ちたら危ねえからな。強引に片腕に抱えて下ろすと、やっぱり辛かったんだろう。ネサラは大人しく俺の腕に収まって食卓についた。
「……良い匂いがする」
「これから仕上げに皮を焼く。スープを先に食ってな」
そう言ったんだが、ネサラは行儀よく俺を待ってくれた。視線が深い器に入れたスープに釘付けなのが微笑ましかったが、なんだか我慢させるのは可哀想だな。
だからスプーンを取ってまず俺が一口飲んでからネサラの口元にも運んでやると、ぱくりと食べて目を輝かせて俺を見る。
「ガリアのはスパイスが強すぎて辛いが、これぐらいなら美味しいんだな。山菜の苦味も気にならない」
「そうだろ? フェニキスでも集落によって味が違う。つーか、その家によってもな。俺の家のスパイスの調合はそんなに辛くねえんだ。ヤナフの家のはガリアなみだし、ウルキの家はほとんど辛いスパイスを入れねえ。面白いだろ?」
「へえ、ベオクの国じゃスパイスが高価だ。いい取引材料になるな。ガリアにうっかり商人を入れるなって伝えてはあったが、ちゃんと守ってるか?」
「もちろんだ。ライがおまえの意図をよく汲んでいたし、補佐のキサもちょっと変わった奴だが頭がキレる。大丈夫だろ」
「ふうん…なるほど。礼も言いたいし、ガリアにも一度顔を出したいところだな」
話の流れに機嫌を良くしたネサラが乗ってきて、それから俺たちは大いに食べて大いに喋った。まあ喋ったのは主に俺だが、一人前に食うようになったネサラが機嫌よく皿を空けてくれる姿は見るだけで幸せな気分だ。
城に帰ったら、ニアルチやシーカーもさぞ喜ぶだろうよ。
油を塗って皮をパリっと焼いた山鳩も好評だったし、果物もだ。
ナイフを使って一口大にした果物を口に運んでやると、ネサラはどれも美味そうに食った。三回に一回は俺の口に入れ返してくれたりな。
俺はいつだってこうしてこいつと飯を食いたいが、こんな風に甘い雰囲気で食ってくれることはもう当分ねえだろう。城に帰ったら特に。
自分のことより、俺の面子を気にしやがるからな。
食後は生ごみの始末をして汲んできた水で洗顔させたが、まだだるそうだ。心配でもう一晩ゆっくりさせたかったが、それはネサラに断られた。
これ以上私用で勝手はできないと毅然と言われちまったらどうしようもねえ。ただ昨日から言ってたからな。
ネサラは座らせとくしかねえから虫と蛇避けの香草を焚いて、約束した蜂蜜を採りに山に入った。木苺も土産にする予定だったんだが、明日中にセリノスに戻るのは難しそうだったから諦めたんだ。
山の中だしな。自分で動けねえネサラはつまらなそうに小瓶に溜めた蜂蜜を少し舐めて籠に入れ、俺が道中食うつもりで採った枝つきの木苺を勝手にほとんど食いやがって、怒るつもりが笑っちまった。
我ながらもう本当に骨抜きだと自覚したぜ。
あとは約束通り、小さくて、色が綺麗で、形も良い珊瑚の欠片をいくつか海で拾って土産は完了だ。
待っていたネサラはご機嫌に、「なかなかのものだな」と渡した珊瑚をいろんな角度から眺めて手巾に包んでこれも貝殻と同じ籠に入れた。
実は、フェニキスには水晶が取れる洞窟もあるんだよな。喜びそうだから、今度機会があれば連れて来てやろう。透き通った大きな紫水晶もあるから、適当に耳飾とか腕輪にしてこいつにやれば喜ぶかも知れねえ。
それから洗濯した手ぬぐいをきちんと元の通りしまって、俺とネサラはフェニキスを後にした。懐に、昨夜ネサラがくれたものと同じ白い花を入れて。
「ティバーン? ……セリノスに帰るんじゃないのか?」
「ちょっと寄りてえところがある。付き合え」
「だからあの上掛けを置いてきたのか? ……俺が持ってやるって言ってるのに」
「いや、そうじゃねえさ。おまえの気持ちは有難い。そのうち自分で運んでくるつもりだ」
そう言って俺が土産ものが詰まった籠を持ち直すと、ネサラはなにか言いかけて結局黙った。
確かにお袋の形見の品には違いねえが、思い出がしっかり残ってるしな。本当はネサラほど強い思い入れはない。
だが、こういう部分は話を合わせておく方がいいだろう。なによりこいつの心遣いがうれしかったのは本当だから、俺もそれ以上はなにも言わなかった。
それから俺たちは若干遠回りにはなるんだが、南回りでキルヴァスの領海を目指した。フェニキスを下から回り込んだ方が風が穏やかなんだ。
「ティバーン……?」
「もうすぐだ」
眉をひそめたネサラは、俺がどこに向かってるかはっきりとはわからないまでも不吉な予感でもするように、不安そうな表情で俺を見る。
やがて見えてきたのは、キルヴァスの一部だがそこそこの大きさがあるにも関わらず人が住める部分はないという、毒のある生物や植物が鬱蒼と生えた暗く淀んだ森に覆われた島だ。
そしてこのさらに先にあるのが、「黒の島」と呼ばれる離れ小島だった。この中心部は「死の門」があるとして、誰も近づかない。近づいた者は例外なく奇妙な病に掛かって死ぬというのが定説で、百年前には鴉にしては珍しく冒険心を持った男が行って帰って来なかったという話も聞いている。
「ティバーン、この先は駄目だ!」
その「黒の島」が遠くに見えたころ、ネサラが青い顔をして翼を止めた。
「言い伝えのことは知ってる。心配するな。奥には行かねえよ」
これは本当だ。俺が行きたいのは「黒の島」本体じゃねえからな。
だが、ネサラは首を横に振り、「そうじゃない…」と俺の腕をきつく掴んでなにか言いかける。
だが、口を開くよりも先に視線を鋭くしたネサラが俺を突き飛ばしながら化身して、蒼く翼を輝かせた。なんだ? 「疾風の刃」か!?
「ネサラ…!」
「来るな!!」
驚いて俺も化身したが、ネサラは俺がそばに行くのを許さず、緊張を漲らせて気配を探る。
しばらくして、俺にもようやくわかった。ネサラが視線を向けた先に、不恰好な黒い鳥…違うな。蝙蝠か? 鴉の戦士ほどの大きな図体の「なにか」がネサラの放った風の魔力に引き裂かれ、ふらふらと墜ちて行った。
ちらりと見えただけだが、ぞっとしたぜ。口はばっくり裂けていて、中に尖った牙が夥しい数並んでいた。目がいくつもあって、どれもでたらめな配置で、翼の形も歪だ。一目でそれと知れる育たないはずの生物だった。
「あの島の怪物だ。触るだけで危ないかも知れない。……あいつらは人を喰らうらしい。いつもは島から出ないけど、たまに迷い出ることがあるそうだ。歪な魔力に覆われていて、魔力を感知する力が弱かったら間近に接近されるまでわからない。今のあんたみたいにな」
「なるほど。……厄介だな」
だからネサラはいち早く反応できたのに、俺は気がつかなかったのか。
しばらく周囲の気配を探って安全を確認したんだろう。ようやく化身を解いたネサラが俺のそばに戻り、さっきの奇妙な怪物が海辺に落ちて、これまた怪魚としか言いようのねえ気味の悪い魚に喰われるのを見下ろして言った。緊張したままの声音で。
「あそこは罪人が棄てられる島だ。……生きて帰って来られる者はいない」
「怪物だけじゃなさそうだな。なにがあるんだ?」
もしかしたら知ってるんじゃねえかと思って俺も化身を解いて訊くと、ネサラは顔を覆って呻くように言った。
「わからない…。俺もあの手記を読むまではのん気に考えていたぐらいだった。キルヴァスの者なら誰もが恐れて近づかない。なにか隠したいならちょうどいいかと思ったからな。だけど、無理だ。俺が読んだのは七代目の鴉王の手記なんだが、この王は何人もあそこで鴉を死なせてる。調査させたんだ。恐ろしい毒があるのは間違いないけど…でも、それを元老院との戦いに使えないかって……」
「………死因は?」
俺も声を低くして尋ねると、ネサラは今にも吐きそうに口元を押さえて答える。
「病だ。帰って来た者は、最初は特になんでもないみたいなんだが、突然羽根や髪の毛や酷い者は睫毛まで抜けて、血を吐いて死んだ。中には火にも当たってないのに火傷したみたいな肌になったり、全身の…皮膚が……」
「すまん。もういい」
そう言って顔色をなくしたネサラが本気で恐れているのがわかって、俺は籠を持ってない腕で震える身体を抱きよせた。
凄まじいな。本当に呪いなんじゃねえのか? それとも、もしかしたらそれも「血の誓約」の「負」の気で…?
腕の中で震えるネサラをなだめながら考えていると、やっと落ち着いたらしいネサラが「すまない」と言って顔を上げた。
「あの島にも生き物はいる。ただ、奇妙な形の生き物しかいないと聞いた。目がなかったり、逆に三つもあるとか、足が何本もある山羊とか、異様に大きな植物だとか。中心に向かった者は誰も生きて帰って来られなかった。ただ話が残ってるだけだ。最後の調査隊の鴉が奥に行って…その鴉はキルヴァス本島には帰れなかったんだが、調査隊の仲間に、中心には不気味に光る丸い湖があると。その水と光を見た仲間のうち、二人は死んでその男だけが這うようにして仲間の元に戻って話したらしい。そこに近づくにつれて生物の姿が見えなくなって、ただ黒い岩と深い半球状になった穴と……毒の風だけが吹いていたそうだ」
「そりゃまた……一体、なんなんだ?」
「わからない。その最後の調査隊の者たちもそれは無残な最期を……。だから、行くのは反対だ。でも、どうしても気になるなら…あんたが望むなら、俺が…」
おいおい、それはねえよ!
震えながら言ったネサラに慌てて否定すると、俺は不安そうな顔をしたネサラを抱く腕に力を込めて言ってやった。
「行かねえよ。あの島は、ヤナフが一度離れて遠くから見たことがあると言っていた。島の周りを取り巻く濃い霧から真っ黒くて尖った岩が無数に突き出ていて、いかにも不気味だってな。あいつは鼻が利く。絶対に近づきたくねえと釘を刺されたぐらいだ。だからおまえも心配すんな」
「でも、じゃあどうしてこっちに…?」
子どものように怯えたネサラにはっきりと笑ってやると、本当は内緒にしておきたかったんだがな。乱れた前髪をかき上げて言ってやった。
「おまえの親父さんに会いに来たんだ」
「父上に…?」
「そうだ。『罪人の島』に眠ってるんだろう?」
「父上…父さまが……?」
そう言うと、どこか夢を見るように遠い目をしたネサラが小さくなにか呟き、俺を見て無防備に瞬きした。
「どうしてあんたがそれを知ってるんだ?」
「セリノスを発つ前にニアルチに聞いた。その小島までなら健康に支障はないってこともな」
「あ…そ、そうだ。確か…あの時、ロライゼ様もいっしょで……」
「ネサラ? ロライゼ様もいたのか?」
「罪人はキルヴァスの墓地には葬れない。だから、あの島に運ばれて…」
「おい、大丈夫か?」
呟くように言ったネサラが目を閉じて頭痛を堪えるように頭を抱える。翼の動きも不安定だ。翼が止まっても落ちねえように腰を抱くと、俺はネサラが断片的に漏らした情報から考えた。
たとえ離れ小島にでもロライゼ様が来られたってことは、少なくともあの島の毒とやらは「負」の気が原因ってわけじゃねえな。
言われなくても、俺の直感が告げる。「危険だ」と。
………本音を言えば、遠目にちらりと「黒の島」を見てえって気持ちはあった。鴉は慎重だが臆病で迷信深い。きっと鴉だと敵わねえ怪物がいるんだろう。だったらそいつらをぶっ飛ばして安心させてやりてえとかな。
だが、これは手を出すべきじゃねえ。命取りだ。
改めてそう考えて、俺はセリノスを出発する日の朝、ネサラが寝ている間にニアルチに聞いた場所までネサラを支えて慎重に飛んだ。
どうして今日行くのか。それはニアルチにうるさく風向きのことを言われたからだった。
春の風の方向ならば問題はないが、季節を誤ると毒の風を浴びる可能性があると。
ニアルチの目は真剣だった。まして今は俺一人じゃねえんだ。絶対に忠告は聞かねえとな。
一年を通して消えないという不気味な霧に包まれた島が遠くに見えた。ヤナフが言った通りだな。霧の中から幾本か突き出た黒い岩が見える。本当に禍々しいぜ。
顔色をなくしたネサラはもう黙ったままだ。俺にぴったりと寄り添って、しきりに周囲を警戒しているようだった。
そして「罪人の島」と呼ばれる岩場のような小さな島に、俺たちは降りた。ここは普通の色なんだな。だが、島というよりはまるで海から突き出た巨大な一つの岩のような場所だ。土は少なく、植物はなにもない。
ただ名も彫られてない黒い石の墓標が置かれただけの、淋しい場所だった。
………あの親父さんが、こんな場所に葬られてるとはな。
ネサラの気持ちを考えると胸が痛む。無言で懐から出した花を置くと、ネサラがしゃがんでそっと墓標を撫でた。
「ずっと……この場所は、忘れていた」
ぽつりと言った頭を撫でると、重い地響きのような音を立ててでかい波が島に当たって砕ける。細かな飛沫がここまで飛んできた。
「ニアルチにもなんだか訊けなくてな」
「そうだろうな」
「父上以外にどんな罪を犯した者が眠ってるのかは知らないが……重い…罰だな」
そっと横に膝をつくと、ネサラは見慣れた皮肉げな笑みを浮かべて続ける。
「まあ、死んじまった者に罰なんてもう関係ない。効力があるのはその身内だ。ここじゃ普通の鴉はまず来られない。言わば見せしめ、かね」
「そうだな。そりゃあ悪いことはやめとこうって気になるさ」
敢えて軽口を叩くと、ネサラも笑ってまた黙り込んだ。
そんなネサラの肩を抱き、俺は黒い墓標に手を置いて言った。こいつが嫌がってるのはわかってたのに、わざわざこのために来たんだからな。
「親父さん、久しぶりだな。……あんたに直接会えなかったのが残念だが、今日は大事な報告があってこいつも連れて寄らせてもらった」
重い風がうしろから吹くが、「黒の島」を覆った霧は揺らぎもしねえ。それをちらりと見て、俺は墓標に触れていた手でネサラの手を取った。
「俺は、ネサラといっしょになる。あんたは鷹の男だけはお断りだと言っていたそうだし、その鷹の王たる俺がこいつを伴侶として求めることは絶対に赦せねえだろうが……もう事後なんでな。順番が違うと怒るかも知れんが…すまねえ。きっと幸せにするから、どうかこいつを見守ってやってくれ」
「ティバーン……」
ネサラが驚いたように俺を見て、俯いて…小さく丸い息をついた。それから言ったんだ。
聞き慣れた「鴉王」のものじゃねえ。穏やかな、ただの鴉のネサラの声音で。
「父上、…いや、『父さま』の方がいいかな。……ごめん。俺、父さまがどこに眠ってらっしゃるかもほとんど忘れてた。こんな淋しいところだったのに。罪人は翼を落として葬られる。もう空には還れないのかな……」
そっと引き寄せて抱くと、ネサラは小さく首を振って俺を見上げて、かすかに目を潤ませて項垂れる。それから波の音にほとんど消えるような声で続けた。
「父さま……。もしも俺がいっしょになりたいってティバーンを連れて帰って来たら、きっと『赦さん、俺に勝ってからだ』って戦ってくれただろうな。でも俺はたぶん、その時は父さまじゃなくてティバーンを応援する。結局、父さまには親孝行できなかったし…あんな小さな鈴しか残せなかったな」
「鈴?」
ネサラの言葉を遮るつもりはなかったが、なんのことかわからなくて思わず訊いちまった。ネサラは笑って教えてくれた。
「鴉の子が持つお守りの銀の鈴だ。思い出した。父上を見送ったとき、手に握らせたんだ。子ども心に、ここがすごく淋しい場所だったから」
「そうか。……おまえらしいぜ」
「子どもの浅知恵だけどな。父さま、いつかまた…落ち着いたら、会いにくるよ。ティバーンのことは、その…どっちかというと俺が無理に酷いことをしたんだから、そこは……ティバーンを責めないで欲しい」
そう言って色を失っていた頬を染めたネサラがきゅっと俺の手を握り返して、俺はここがどこだかも忘れそうな勢いでネサラを抱きしめたくなった。
「そろそろ行くか。長居はよくねえだろ」
「あぁ、……そんな気がする」
風の向きは変わらねえ。でも、なんとなくそんな気がして羽ばたくと、耳の後ろで鴉にしては低い美声が聴こえたような気がした。「この、鼻たれが」なんてな。
「わ…っと!」
「!」
それで振り返ろうとした時だ。不意打ちの突風が下から俺たちを突き上げて、まるで放り投げられるように遠くへ飛ばされた。あの「黒の島」とは真逆の方に。
キルヴァスの離れ島に続く一番気流が乱れる場所だ。ネサラもろともまるで丸洗いされるようにもみくちゃにされながらなんとか先に体勢を立て直すと、捕まえたネサラが呆然と島を見下ろして目を瞬いていた。
「大丈夫か?」
「あぁ…いや、平気だ」
ネサラはまだ親父さんの眠る小さな島から目を離さない。そのまま、やけに心細い声でぽつりと言った。
「……『もう来るな』って……」
「あ?」
「そう言われた気がした。いや、なんというか…その、すまない。俺の勝手な感傷なんだ」
あー…なるほどな。照れくさそうに表情を取り繕ったネサラに笑ってやると、俺もいきなり遠ざかった小島を眺めて答える。たぶん、俺の考えは間違っちゃいねえはずだ。
「危ねえ場所だからな。可愛いおまえをとっとと追っ払わなくちゃいけねえと思ったんだろ。心配するな。俺たち鳥翼族の魂は空に還る。それは翼を失ったって変わらねえよ。きっと会いたくなったらどんな風にだって親父さんはいるんだ。そういうことだろ?」
我ながらいいことを言ったと思ったのによ。
ネサラは一瞬目を丸くして、それから噴き出しやがった。おいおい、失礼なヤツだな!
「あはは…! に、似合わない!」
「悪かったな。ったく、さっき泣いた鴉がもう笑ったってのはこのことだぜ」
「うるさい。だったら横でずっとめそめそ鬱陶しく泣いてやろうか?」
「……それは俺が切ねえからやめてくれ」
思わず情けねえ顔で言うと、ネサラは傲然と「そらみろ」と腕を組んで先に飛んだ。あげく、早く来いと手を振る。
足腰はまだ萎えてるようだが、翼は元気なんだよな。……いいことだけどよ。
この夜は、またキルヴァス城に泊まろうかと思っていたんだが、そうするとネサラは否が応でも「鴉王」になっちまう。だから敢えて避けてテリウス本土にほど近い海岸線にある小さな海小屋に泊まった。
鴉の民が岩海苔や貝を採ったりする時に使うだけの小屋だから、寝泊りするために必要なものはなにもねえが、屋根があるから充分だ。
フェニキスにいた時と同じように、ネサラには薪に使う流木を集めさせて、飯の仕度は俺が一人でした。これは俺の仕事だ。俺の性格をよく知ってるネサラは特に文句も言わずに、俺の用意した飯を食ってくれた。
それにしても、ここに来て確信したぜ。ネサラは確かに食う量が増えた。今までのネサラと同じ程度の量じゃ足りねえらしいのが様子でわかるから、魚と貝のほかにもいろいろと探したさ。ただ、ネサラが「スープにすると美味いんだぞ」と教えてくれた海草は、どうも好きになれる自信がなかったがな。
夏だったら海亀の卵もあっただろうに、季節外れなのが残念だった。ネサラは食ったことがないと言ってたから、食わせてやりたかったんだがな。滋養がつくしよ。
「見張りはいらねえな。ネサラ、寝るか?」
「………」
夜になって声を掛けると、どこか思案顔のネサラが隣に座る。小屋の床は一応裸足で作業するために玄関に当たる部分とわけられて一段高くなっているが、それでも砂が多い。一応備え付けの道具で掃き掃除はしたが、それでも簡素な木製の床の砂は取りきれなかった。
それに、虫も出る。虫除けの草は焚いたし、海水に強い草で編んだ敷物があるだけましっちゃましだが、ネサラの表情を見ているとやっぱり城に寄った方が落ち着いたんじゃねえかとちらりと後悔が過ぎる。
「眠れそうにねえか?」
ひびの入ったランプの光に浮かび上がる横顔は、やっぱり沈みがちだ。こういう時はどうしたもんか迷うな。
俺は言ってもらわねりゃわからねえことが多い。察してやれりゃ一番だが、こればかりはな。
そう思って腰から抱きよせると、露骨に身体を固くされて頭を掻いた。
「ネサラ、緊張するな。今夜はなにもしねえ」
ちらりと、初めてネサラの視線が動いて俺を見る。
「本当だ。続けては無理だってことぐらいわかってる。まだ脚が言うことを聞かないんだろ?」
「………すまない」
「謝るな」
そう言って歩く時はまだぎこちない脚を撫でてやると、ネサラはため息をついて膝を抱えた。
もちろん、正直に白状すりゃものたりなかったがな。情を交わしたばかりなんだ。本当は、昼も夜もなく繋がっていたい。だが、俺たちの場合は野郎同士で、どうしてもネサラの方が身体に負担が掛かる。
だからちゃんと辛抱したとも。一時の激情で、これから先の関係をこじらせるなんて真似だけはしたくねえ。慌てる必要だってないだろ。
そう思ってやっと強張りがほぐれてきた腰をなだめるように撫でてフェニキスとは違う潮騒に耳を傾けていると、ネサラがことりと俺の肩にもたれてきた。
「ありがとう」
「ん?」
「父上に会いに行ってくれたことだ。……うれしかった」
「当たり前だろ」
淡々とした口調だが、触れ合う翼の動きでネサラの気持ちが伝わってくる。本当に喜んでくれてるってこともな。
そっと俺の大腿に差し出された手を握ると、ネサラも握り返してくれた。俺より少し体温が低いが、それでも前のように冷たくはない。ちゃんと健康な体温だ。
「俺もティバーンの母上にご挨拶しなくちゃいけなかったな。すまない。気がつかなくて」
「いらねえよ。俺のお袋も風の中にいる。でも、そうだな。……気が向いたら、夏にいっしょにフェニキスに来てくれ。大きな花を見せたいし、おまえに飾りてえ。飾って、俺もお袋にちゃんと言いたいからよ。いいだろ?」
「………わかった」
よし、約束を取り付けた。
お袋をダシに使うのは卑怯な気がしたが……不思議だな。いざ口に出してみると、べつに言い訳じゃなくて本当にそうしたいって気持ちが俺の中に湧き上がってくる。
俺の翼に優しく触れたネサラの翼がうれしい。俺より骨は華奢だがその分しなやかで、どんな難しい風でも巧みに操る黒い翼を撫でると、ネサラがくすぐったそうに笑う。
「なあ、鴉が求婚する時にはどうするんだ?」
「ん…?」
「おまえは鷹のやり方で求婚してくれただろ。だったら俺もおまえのやり方でしてやりてえじゃねえか。鷺には求愛の唄があるらしいってのは知ってるけどよ、まああいつらは考えただけで相手に伝わるからな」
素直に訊くと、ネサラは少し考えて首を横に振った。
「特に決まりはない。花を贈る者もいれば、装飾品を贈る者もいるし、恋文をしたためたりすることもあるだろうし……。結婚式に少し決まりがあるぐらいだな」
「どんな決まりだ?」
そういや、知らねえんだよな。俺たちのところでやる結婚式っつーと、宴会が目的になっちまうし、多少派手な衣装に変わるぐらいだしよ。
「式の衣装はそれぞれの母親が縫うんだ。それから式の中で紅を目元と、男は下唇に、女は唇全体にさす。お互いの手でな」
「なにか意味があるのか?」
なんだか聞くだけで色っぽい雰囲気じゃねえか。そう思って先を促したんだが、ネサラは眠くなってきたんだろう。小さく欠伸を噛み殺して教えてくれた。
「簡単だ。『もう私はあなたしか見ません。あなたとしか口づけを交わしません』そんな誓いを込める。――あぁ、あんたにそこまでは求めてないから安心しな。浮気したら怒るけどな」
そう言って目元をこすったネサラは本当に眠そうで、俺は笑って背中を撫でてやる。
いや、しかし、なあ? 俺にそこまで求めてないって言いながら浮気は赦さんって矛盾してねえか?
……この分だとそこまで考えてねえだろうが、鴉がいかに貞淑かってのはわかった。そりゃ鷹の野郎どもが嘆くはずだ。
ちょっと誘っても鴉からは色好い返事が貰えねえってよ。結婚する気がなけりゃ手は出すなってことだよな? ……帰ったら改めてそのあたりのことを鷹に叩き込まなけりゃならねえ。もちろん鴉にも、鷹の想いに応える時は気をつけろってことをな。
「ネサラ……口づけだけ、いいよな?」
いつの間にか俺の首筋に顔を埋めていたネサラの睫毛が触れてくすぐったい。囁くように言うと、ネサラがランプの火を消して頷いた。
もちろん、交わしたのは本当に触れるだけの口づけだ。約束は守らなけりゃな。
どちらからともなく翼をしまって寝転がると、天井近くに開けた簡素な窓から空が見えた。今夜は少し雲があるんだな。月に照らされる雲のほかは星がほとんど見えねえ。
抱き寄せたネサラの体温が心地良くて、しばらく雛にするように腹を叩いてやると、「それはあんたの子にしてやれ」と笑ったネサラに止められた。
俺の子か。……当たり前だがネサラには俺の子は産めねえ。ラグズはベオクほど王の血統に重きを置いてねえが、それでもまったくないわけじゃねえからな。強い者の血を引く子が欲しいのは誰だって同じだ。
もちろん、血が濃くなるほど非常識な子の作り方はしねえが、俺も、こいつもまだ若い。つがいと子作りを分けるのは言わばラグズの常識だ。
ネサラは誰との間にも子を作ることはないと言い切っていたが、俺に身体を許した時点でそれはなくなったか、揺らぐことになるだろう。
そのうち気が向けばいいんだが、どうだろうな? 結婚式の話を聞くだけでも難しそうな気がするが、ついそんなことを考えながら俺も目を閉じた。
セリノスに向けて発ったのは早朝だ。
天気が良かったから海が青くて綺麗だった。セリノスの緑は格別に美しいが、やっぱり元はフェニキス出身だからな。故郷の海と多少色が違っても、名残は惜しい。
テリウス本土に入っても海が見えなくなるまで何度か振り返り、やがて普通の森とは鮮やかさの違う、内側から輝くような緑が視界に入った。セリノスだ。
ネサラが化身を解いて目を細める。うっとりとしたため息が聞こえた。続いて化身を解いた俺も似たような気分だ。
どんなに選りすぐりの翠玉でも、この見事な緑には敵わねえだろうよ。
見るまでは俺もネサラと仲を深めた二人の時間が終わっちまうのが残念だったんだが、こうなると早く帰ろうって気になるのが不思議だな。
だがいざセリノスの森に近づくにつれてネサラの翼が鈍くなり、なにやら一人で考え込み始めた。
「おい、疲れたのか?」
もちろん違うのはわかってるさ。それに、俺と離れたくねえとか、そんな可愛い理由でためらってるわけじゃねえこともわかってる。
だから一番無難な水の向け方をすると、ネサラは俺の手から籠を取りながら言ったんだ。いかにもこいつらしいことを。
「いや…ちょっとな」
「あ?」
視線をそらした頬が赤い。ちょっと心配になって顔を覗きこむと、ぐいと俺を押し退けてぶっきらぼうに続けた。
「ニアルチもなんだが…ラフィエルに会うのが、ちょっと……」
最後は消えそうな声で「恥ずかしいだけだ」と付け足して、俺も納得する。
ああ…そうか。そうだよな。
「なんだ、その…あいつにはなにもかも筒抜けだからな」
そこはもう、しょうがねえ。そのかわり、鷺ってのはそっちの方面に照れもねえんだ。開き直りゃいいさ。
項垂れたネサラの背中を叩いて励ましてそのままセリノスの王宮を目指すと、ちらほらと俺たちを見つけた鷹と鴉が寄ってきて挨拶してくる。どの顔もうれしそうだ。
「王! お帰りなさいませ! 鴉王も」
「ネサラ様…よくご無事で……」
鷹が数人うれしそうに俺たちの周りを飛んで、鴉は泣きそうな顔でしきりに俺にまで頭を下げる。
病み上がりで連れ出しちまったから、本当に心配させたんだろうさ。俺は鷹にはいつもの調子で、鴉には意識して笑って応えた。
それからも何回か同じようなやり取りを繰り返してしばらく飛ぶと、ようやく白い王宮が見えた。真っ先に飛んできたのは、やっぱりリアーネだ。
「ネサラー!」
すっかり喉が良くなったんだろう。あの透き通った可愛らしい声でネサラを呼んで、ネサラの顔も喜びに輝く。
見ると、中庭にウルキがいる。ラフィエルとリュシオン、ニアルチとニケもだ。遅れてテラスから降りてきたロライゼ様に二人で目礼すると、ふわりと目の前に飛んできたリアーネがそのままの勢いでネサラの頭を抱きしめた。
「ただいま、リアーネ。声が出るようになったんだな。良かった」
「ウン。もうだいじょうぶ。ティバーンさまも、おかえり!」
「おう、ただいま。もう謡えるのか?」
若葉色の目をきらきらさせて俺を見上げるリアーネに訊くと、リアーネはにっこり笑って頷く。そりゃ良かったぜ。リアーネの声が出ないなんてことになったら、ネサラもじいさんもどれほど嘆くか知れねえ。
しゃべれなくなろうが、謡えなくなろうが、リアーネはリアーネだ。俺はそう思うが、こいつは特に自分の犯した罪が増えたように苦しむだろうからな。
「ほら、これは土産だ。あとでみんなで分けるんだぞ」
「おみやげ?」
「あぁ、気に入るかどうかはわからないが」
大きな目を瞬いて小首をかしげたリアーネに籠を見せて、ネサラは華奢な身体をもう一方の腕で抱えて微笑む。
「俺は泳ぎが苦手だからな。珊瑚はティバーンが取ってくれたんだ。綺麗だから、これはリアーネの好きな装飾品にすればいい。なにを作るか考えなくちゃな」
「わあ、うれしい」
本当にうれしそうに笑ったリアーネだったんだが、……なんだ? 落ち着きなくネサラを見つめて、俺と見比べてまた首をかしげる。それから待ちかねたリュシオンの声に応えて先に下りるネサラを見送って、くるりと俺を振り返った。
「どうした?」
じっと見つめてくる双眸をまっすぐに見返すと、リアーネはにこりと笑って寄って来る。
「ネサラ、ぽかぽか!」
「あ?」
なんだ、そりゃ? 意味がわからなくて訊き返すと、リアーネは華奢な手で自分の胸を叩き、次いで俺の胸をぽんぽんと叩いてまた笑う。
「ぽかぽかなの。もう、さみしくない」
「ああ…そういうことか」
自分のことのようにうれしそうなリアーネに、俺まで笑っちまったよ。俺の肩に掴まった軽い身体を振り落とさねえように中庭に下りると、ネサラは見慣れた顔でまずリュシオンに籠を渡していた。
「これはすごい。たくさん採ったんだな!」
「まあな。おい、重くないか? ニアルチに運ばせるから無理はするなよ」
「なんの、これしき! 鷺王たるもの、このぐらいのものは平気だとも」
「いや、鷺王は腕力で勝負するわけじゃないだろ」
相変わらずのやり取りを聞くと、つい笑っちまうぜ。
さりげなく俺に視線を寄越すニアルチに黙って頷くと、ニアルチも深く頷いて俺に頭を下げた。
「ぼっちゃま、お疲れではございませんかな? 心配いたしましたぞ」
「べつに心配されるようなことはない。それより、リュシオンに渡した籠を運んでやってくれ」
「はい、それはもう」
ネサラから漂う緊張感には気付いているだろうがなにも言わず、ニアルチはリュシオンの手から籠を引き取って下がった。
「ネサラ……」
次に声を掛けたのはラフィエルだ。傍目にもネサラの背中が伸びる。
「ただいま。ラフィエル、その……」
「もう…大丈夫ですね?」
うっすらと赤くなったネサラが口ごもるが、やっぱり見えたんだな。ラフィエルはそれ以上なにも言わずにただ微笑んで、白い手でネサラの頬を撫でた。
「大丈夫だ」
頷いたネサラが照れくさそうにその手を握る。
「微笑ましいことだ。いろいろとあったようだが、有意義な骨休めになったならなによりだな。鳥翼王?」
ニケは微笑ましく二人を見てるかと思ったら、俺にはにやりと笑っていかにも悪戯っぽい光を浮かべた隻眼を向けやがった。
さすがは狼女王、鼻が利くというか…お見通しだな。
だが、問題はまだ事情を飲み込めてねえ二人だった。
「ネサラ、この痣はどうしたんだ?」
「え?」
リュシオンがネサラの首筋にうっすらと残った痕に気がついて、それまでにこにこと立っていたロライゼ様も覗き込む。
不味い。ウルキの冷ややかな視線を感じながらどう言い訳したもんかと思ったところで、「ああ」とぽん、と手を叩いたロライゼ様がとんでもないことを言い出した。
「今日はネサラからやけに強いティバーンの匂いがすると思ったら、そうか。やっとティバーンも君が大人だと認めたんだねえ」
「父上、どういうことです?」
「無理強いではなくて、ネサラも望んでティバーンと閨をともにする仲になれたということだよ。いや、めでたい」
「な…ネサラ! おまえ、怪我はしてないのか!?」
こちらは本気で案じたリュシオンにまで詰め寄られ、固まったネサラのそばに、機嫌よく珊瑚の欠片を眺めていたリアーネが顔色を変えて飛んで来る。
「父さまも、兄さまも、めッ! ネサラ、泣かないで」
ラフィエルははんなりと、ニケはさもおかしそうに笑い出し、ウルキは俺にもネサラにも同情するような視線を向けて俯く。
いや、この場合泣きたいのは俺もだろ!
「ネサラ、ぽかぽかはいいことよ。ね、泣かないで?」
「泣…いてない」
「やっぱり怪我をしてるんじゃないだろうな? ティバーン、本当に無理強いはしてないんでしょうね!?」
「してねえよ。怪我もさせてねえ。いいからもうそっとしといてやれ」
つーか、できりゃ俺もそっとしといてくれ。
ぎくしゃくと俯いたネサラがいたたまれねえようにゆっくりと赤くなり、リアーネは頭を抱いて必死に慰めるし、ウルキも俺とネサラの間で視線をうろうろさせてからネサラの肩に手を置いて、ロライゼ様はのん気に笑っていた。
「それならいいんですが、どうも心配で。しかし、そうか…。ネサラは先に大人になったのだな。まあ相手があなたなら大丈夫だとは思いますが」
そんな周りに動じずしみじみ呟いたのはリュシオンだ。
とうとう顔を覆って背中を向けたネサラの小さくなった翼を引いて強引に振り向かせ、正面に回りこんで言う。
「ネサラ、もちろんティバーンは責任を取ってくれるのだろうな?」
「責任って……いや、それは、むしろ俺が」
「もちろんだ。こいつの親父さんにも報告に行った」
「そうですか! 良かった。ティバーン、安心しました」
声だけは冷静に言い掛けたネサラを遮って伝えると、リュシオンの顔が輝いてずっと心配そうに寄り添っていたリアーネはなにやら古代語で耳元で囁きながら、ネサラの落ち着きのない黒い翼を撫でた。
そして、俺とネサラをにこにこと見回して言いやがったんだ。
「ね、わたし、ネサラの赤ちゃん…ティバーンさまの赤ちゃん…たくさん、産みます」
「リアーネ!?」
ネサラが目を剥いて顔を上げる。俺もだ。
いや、いつかはと思ったが…まさかこの場で言い出すとはな。
だが、驚いたのは俺とネサラだけだったらしい。鷺はともかくニケも、ウルキも動じずにリアーネの言葉を聞いていた。
「わたし、鷺。ネサラ、鴉。ティバーンさま、鷹。ぴったり!」
「リアーネと話していたのだ。三種族の婚儀は我々が本当の意味で一つになって生きる、その象徴になるのではないかとな。鷺の女性が鷹の子を産むのが危険なのは知られている。だが、先に出産経験があれば危険が低くなることを女性たちは知っていた。考えてみれば政治的にもこれほど都合のいいことはありませんしね」
リュシオンが語る話は、理想論じゃねえ。その通りだ。だがネサラの表情は険しかった。
「リアーネ…俺とティバーンの間に子はできない。おまえ、まさかそのために?」
リアーネだからこそ、子を産む道具にはできない。ネサラの声に含まれた怒りに気がついたのはもちろん俺だけじゃねえ。黙って成り行きを見守る全員がそうだっただろう。
俺だって同じ気持ちだぜ。そりゃ、俺も理想的な話だとは思うさ。だが、そのためにリアーネを犠牲にするようなことができるはずがないだろう!?
「そう」
「リアーネ…!」
こっくりとうなずいたリアーネに、ネサラが怒りの視線を向けた。普段なら鷺には絶対に向けられることのない「鴉王」の厳しい視線だ。だが、リアーネは怯まなかった。
「わたし、ネサラすき。ネサラの赤ちゃんほしい。それに、ネサラも赤ちゃんすきだもの。わたしの生んだネサラの赤ちゃん、それよりもっとティバーンさまの赤ちゃん…すごく、かわいいって思ってる。抱っこしたい。ね?」
「それは、でも…!」
「……ネサラがいやって言ったら……わたし、ネサラじゃない人の赤ちゃん産むの……?」
若葉色の目に大粒の涙が浮かんだ。ネサラは焦るし、ロライゼ様はのん気に「それはまあ、仕方がないねえ」なんて言いやがるし、ニケに至っては酷いもんだ。
「女としてはリアーネの気持ちを汲んでやりたいところだが、最後の白鷺王女となれば、政略結婚であっても嫁ぐのは致し方なかろうな」
俺か? 俺はなにも言えなかった。口を開けば泥沼になる気がしてな。
ただ肩を竦めたラフィエルと目が合って頭を掻くだけだ。
「リアーネ、俺は…その、おまえのことは愛しい。かわいいと思ってる。でもそれは妹みたいなもんだ。こんないい加減な気持ちでそんな真似できない。まして俺はもうティバーンと誓いを交わしたんだぞ?」
「浮気になる?」
「そう思うから言ってるんだ。俺は、浮気はできない。ティバーンにも浮気をするなって言ったのに、俺だけそんな…」
「わたし、ティバーンさまの赤ちゃんも産むのに?」
「!」
おいおい、そりゃ脅しだろ。
リアーネが先に俺の子を産むってのは、つまり命取りになりかねねえ行為だ。思ったとおり、ネサラがぎろりと俺を振り返る。
断れってことだよな。いや、断りたいさ。しかし…ロライゼ様とラフィエルには笑顔で、リュシオンからはじっとりと圧力を感じる。
この場で俺になにか言えることがあると思うのか!?
「ネサラ…俺にとってもリアーネは可愛い。可愛いからこそ、子を産むために俺が認められねえ男に嫁がせるのはもちろん、そんな真似はさせたくねえ」
だからなるべく慎重に言葉を選んでそう答えると、ネサラはまだなにか言いたそうだったがいつもの冷静さを取り戻した様子で、じっと返事を待つリアーネを片腕で抱えたまま考え込む。
「三鳥翼族が一つになる象徴…それは確かに大きい」
「ね?」
「でもな……」
「わたし、ネサラがにこにこ、ぽかぽかがいちばん。わたしもぽかぽかするよ?」
そこまで言ってくるりと俺を振り向いたリアーネが屈託なく言った。ったく、欲しいもののためなら本当に正直なんだよな。鷺って種族は。
「ティバーンさまも、ネサラの赤ちゃん抱っこしたい。ね?」
ネサラの視線も俺を見る。……そうだな。ここは正直に言うしかねえか。
「ああ。もちろんだ。それに、リアーネほど俺たちの女に相応しい女はいねえぞ。なによりも強い」
心がな。
そういう意味で答えると、ネサラは眉をひそめたものの珍しく自分からリアーネの柔らかい胸元に顔を埋め、深い息をついた。
「話はわかった。……だが、しばらく考えさせてくれ。リアーネの幸せがかかってる。この場で安請け合いはできない」
「うん。ネサラがいやなこと、わたし…しない。でも、わたしはホントのこと、言った。わかって?」
「あぁ、わかってる。おまえの気持ちはうれしかった」
「うん! それにね……」
あ? なんだ?
笑ったリアーネがちらっと俺を見てネサラに耳打ちする。それまでは悩むような表情をしていたネサラも切れ長の視線を俺に流して、最後には二人で顔を見合わせて笑いやがった。
おいおい、気になるだろ!
「リアーネ、父上も、リュシオンも……そろそろお開きにしましょう。ネサラはこういうことをあからさまに話題にされるのは好みません」
二人に問い詰めようとしたところで、間に入ったのはラフィエルだ。ラフィエルは冷静だな。そっとネサラを庇いに出てくる。せめてニケが余計なことを言わねえように控えてくれてるのは有難かった。
「そうだね。いやあ、今まで考えなくても伝わってきていたものだから、どうも私はまだ人の心の機微に疎くて申し訳なかった。こういったことを秘め事にするのは鴉の嗜みだと知っていたつもりなのだが。リアーネのことを伝えられたのは良かったけどねえ」
「そうですね。ネサラ、おまえが怪我をしなかったならティバーンとのことはもういい。なにより、久しぶりにおまえの幸せそうな心を感じたし、リアーネのことも前向きに考えてくれるつもりになったようだから、私も安心した」
ネサラは二人の言葉にまた赤くなったが、話はそれで終わらなかった。
「……でも、良かった。これでやっと君に友の言葉を伝えられる」
さて、この場からどうやってネサラを連れ出してやろうかと思っていたら、ロライゼ様が穏やかな緑の双眸を深い色にして、自分よりもわずかに背の高いネサラに微笑みかけて言ったんだ。
ネサラは目を瞬いたが、俺はすぐにわかった。ロライゼ様の友ってのは、ネサラの親父さんのことじゃねえのか!?
「――ニアルチ」
「はい」
「私の部屋にお茶を。ネサラ、ティバーンも来なさい。この子が伴侶と定めたなら、君にも聞く資格がある」
いつの間にかじいさんも戻ってたんだな。ロライゼ様に言われて、今度は鷺の館に飛んでいく。
「王、私は……」
だが、そうだ。ウルキはこの距離なら恐らく聴こえちまう。遠慮して遠方に行くと言いかけたウルキに、ロライゼ様は見慣れた穏やかな笑顔のまま、だがまだリュシオンには醸せない鷺王の威厳を見せて言ってくれた。
「構わないよ。君は分別があり、人の心を言って回ったりはしない。私はそれを知っている。なにより、君はティバーンの『耳』なのだから。いつものようにしていると良い」
「その通りだ。ウルキ、そうしろ」
「………」
それでも思案するように俺とネサラを見たが、ウルキはそっと頭を下げて飛び立った。遠くに行くんじゃなくて、いつものように俺が呼べばすぐに動ける辺りに行くつもりなんだな。
「父上」
「リュシオン、リアーネも外しなさい。ラフィエル」
「はい。二人とも、事情はあとできちんとわかりますから、いっしょに待っていましょう」
柔らかな言い方だが反論を赦さないロライゼ様に、リュシオンとリアーネは渋々ネサラから離れるしかなかった。
まあ、こっちはラフィエルもニケもいる。心配ねえだろう。
「ネサラ」
先に羽ばたいたロライゼ様を見上げて、ネサラの翼は迷っていた。だが、ここで行かないってわけにゃいかねえだろ。
背中を抱いて促すと、やっと羽ばたいてあとを追う。横顔はいつもと同じ表情だが、内面はどうだかわからねえな。
まして、やっと親父さんの墓を思い出したような状態だ。正直、ロライゼ様の話の内容がどんなものか心配になった。辛い思いをしなけりゃいいんだが……。
ロライゼ様について鷺の館へ移動してるからな。さすがに人懐こい鷹も遠巻きに俺たちを見送る。その向こうにはネサラに挨拶をしようと慌てて飛んで来たんだろう。シーカーもいて、俺たちにぺこりと頭を下げていた。
「さあ、入りなさい」
ロライゼ様が俺たちを招いたのは二階のご自身の私室だった。戸惑ったネサラの手を取ってテラスに下ろすと、ニアルチが中で三人分の茶を用意して控える。どうやら、長くなりそうだな。
「ぼっちゃま、鳥翼王様もどうぞこちらに」
ニアルチが勧めたのは二人掛けのソファだった。ロライゼ様は薄い緑の大きな石で作られたテーブルの向こう、ネサラの前のソファに腰を下ろす。
ここまで来たら覚悟が決まったんだな。ネサラは見慣れた仕草で前髪をかき上げて俺の横に座った。
淡い色彩を好む鷺の中でも、長い間王位にあったロライゼ様の私室は、意外なほどに鮮やかな色彩でまとめられていた。
壁に掛かる踊り子の絵画、鮮やかな花が描かれた壁紙、藍色と深い緋色の絨毯と、濃い水色と金糸で大胆に縦縞模様に織ったカーテン、繊細なレースを幾重にも施された天蓋つきの寝台……。そして今俺たちが腰を下ろしているのは、深い緑の革張りのものだ。
使った色はばらばらなのに不思議と調和が取れていて、色彩も刺激と捉える鷺の性質がよく表れてると思う。
そういや、ロライゼ様の好みを聞いてこの部屋の装飾を手がけたのはネサラだったが、こいつはいろんなことを器用にこなすもんだ。
「ネサラ……。私は長い間、友から預かりものをしていたのだよ」
初めて入った部屋を眺めていると、まず一口柔らかな香りのハーブティーを飲んだロライゼ様が話を切り出した。
「それは…父上ですか?」
「もちろん」
ネサラの声は固い。膝の上で組んだ長い指にかすかに力がこもっていた。
「まず、これだけは知っておいてもらいたい。君の父上、そして私の親友であるルイセは、無実だ」
ネサラだけじゃねえ。俺も驚いて息を呑んだ。
無実…? 鴉王に謀反を起こしたんじゃねえのか? どういうことなんだ?
「彼は妻を愛していた。そして君を得て、さらに深い愛を注いだ。それはわかるね?」
こくりとネサラが頷く。ひたむきなネサラの視線に微笑むと、ロライゼ様は一つ頷いて続けた。
「彼は少し…そう、少し大胆な人柄だったから、当時の鴉王とその側近が心配したのだよ。キルヴァスの抱える秘密に気がついた彼が、それを探るのではないかと。そして突き止めた時、激情に任せてベグニオンに牙を剥くことを選択するのではないかとね」
「ぼっちゃま。ぼっちゃまを得る前のお父上でしたら、きっとそうなさったでしょう。ですが、そのころにはもう落ち着いておられた。なによりもぼっちゃまだけではなく、ぼっちゃまがこれから生きていくだろうキルヴァスのことを考えられるほどに大人であられたのです」
ロライゼ様のあとを続けたニアルチの言葉に、ネサラは黙って耳を傾ける。だが緊張は増したな。ネサラの指がいっそう白くなったのを見て、俺は堪らず動きを止めた翼を撫でた。
「あの日、ルイセは君を抱いて私を訪ねてきた。君はまだ幼くて、眠ってしまっていて…覚えているかい? 飛び方を教えてもらったのだろう?」
「荒れた風の馴らし方を…ニアルチじゃ飛べないところもあったから」
ネサラは覚えていたらしい。はっとしたように顔を上げて答える。
「そう、その日だよ。眠った君を私とリリアーナに託して、キルヴァスに向かったんだ。……鴉王の呼び出しに応じてね」
「ロライゼ様、それは」
まさか。そう思ったがネサラの気持ちを思うと口にできず、俺は立ち上がりそうになった身体を意識して抑えた。
「そう、罠でした。お父上は…気がついてらっしゃいました。それでも応じたのです。鴉王にご自分の意志を伝えるために。……ですが、当時の鴉王はもう疲れ切ってしまっておいででした。お父上の言葉に耳を貸さないばかりか、セリノスに残ったぼっちゃまの命と自分の命、どちらかを選べと……」
ニアルチの淡々とした、だが苦しげな表情で語られた内容にネサラの息が乱れる。堪りかねて手を握ってやると、汗でびっしょりと湿って冷たくなっていた。
「ぼっちゃま、お父上は、反逆を企てたわけでも、裁かれてお命を奪われたわけでもない。差し出された毒杯を自ら呷られたのです。あのままではどちらにしろセリノスに飛んだ側近の誰かがぼっちゃまの身柄を押さえましたでしょう。そしてそうなると、きっと最後はぼっちゃまの目の前で死ななければならないことになります。そのようなことになれば、どれほどぼっちゃまが傷つくことか知れない。そう考えてお父上は自らお命を……」
「女神に禁じられたことだ。まして毒だなんて、苦しかったろうね。だが、呻き声一つ上げず、罪人として仕立てるために、翼まで切り落とされた。鴉王は、泣いていたそうだ。鴉王も苦しんだことは間違いない」
とうとう顔を覆ったネサラが呻いて苦しそうに息をつく。そんなネサラに真実を語るニアルチの目には涙が浮かんでいた。
「ですが、次代の鴉王だと思われていたお父上…ルイセ様さえも見せしめとして処刑されました。そのことは、当時高まりつつあった謀反を実際に企てていた者たちを牽制するのに絶大な効果を上げたのですじゃ」
「むしろ、目的はそっちだったってことか」
「そういうことだろうね。ネサラ、君にもわかるだろう?」
力なく頷いたネサラに、ロライゼ様は優しい目を向けて、控えてむせび泣くニアルチに慰めの言葉を掛けた。
俺にはなにも言えねえ。ネサラの肩を抱いて、たださすってやることぐらいしか。
「ネサラ、私が彼から託されたものは言葉だ。たった一言のね。『愛している』と。幼かった君が自分のことを忘れていたら、伝える必要はない。反逆者として殺されたことを恥と思っていても、伝える必要はない。でももしも、父である自分の遺したつまらない一言が君の背中を押せることがあるなら、いつでもいい。伝えてやって欲しい。……そう言われていた。ネサラ、来なさい」
冷静になろうとしながらも揺れる目で一瞬俺を振り返ったネサラに、俺は笑って頷いた。ためらう必要はねえ。ただ手を取ってそっと立ち上がらせてやると、ネサラは翼まで震わせながらロライゼ様のそばに行った。
慈愛に満ちた眼差しがネサラを見上げ、手を握られて、ネサラはぎくしゃくと膝をついて白い絹の長衣(ローブ)を纏ったロライゼ様の膝に頬を押し当てる。
それから頭を撫でられて、堰を切ったように泣き出した。キルヴァスで泣いた時のように声を我慢したものじゃねえ。本当に幼い子どものように無防備に、大きな声で。
ロライゼ様はなにも言わずにご自身もソファから降り、泣きじゃくるネサラを胸に抱えてくれた。まるで父親のように。
負い目ばかりのネサラから、一つでもそれがなくなればいい。
当時の鴉王に対してはもちろん、なにも考えねえってのは少なくとも俺は無理だが……それでもな。良かったと思う。
ニアルチも涙を拭いながらそばにより、しゃくりあげるネサラの背中を撫でてやる。
やがてネサラの涙が落ち着いて、ぎこちなく顔を起こすまで、ロライゼ様は自分より大きく育ったネサラを抱きしめて微笑んでいた。
「も…申し訳…ありま、せん。俺は、いつもはこうでは……」
「わかっているよ。大丈夫。君は長い間涙を我慢しすぎたからねえ。たまには無理にでも泣くといい」
「いや、それは…む、難しいかと」
「そうかね? とりあえず、私は君の父のつもりでもいるから、笑ったりはしないよ。安心なさい。ティバーン」
「はい」
呼ばれて立ち上がると、なんだ? 俺まで手招かれた。
これは、俺もネサラの横に跪けってことか?
まあ、元鷺王に逆らえるわけねえよな。年長の王なんだし。頭を掻きながらネサラの横に膝をつくと、満面に笑みを浮かべたロライゼ様ががしっと俺の頭を掴んで引き寄せた。
危うく薄い胸元に倒れ込むところだったぜ。なんだ? なんで俺が頭を撫でられてるんだ? とにかく慌ててソファに手をついて姿勢を保つと、しばらくしてロライゼ様はつまらなそうにため息をついて言ったのだった。
「なんだ。君は泣かないんだな。つまらないねえ」
「は!?」
おいおい、どうして俺が泣くんだ!?
驚いて顔を起こすと、きょとんとしたネサラがすっかり赤くなった目を瞬いて俺とロライゼ様を交互に見比べる。
俺も驚いてロライゼ様の白い整った顔を見上げると、ロライゼ様はさも切なそうに自分の頬に手をあて、ため息をついたのだった。
「だって、せっかくこんなに強くて美しい子が二人も私の息子になったのに、甘やかしたいだろう? なのにティバーンはちっとも甘えようとしない。つまらないじゃないか」
「いや、あの…む、息子と言われてもですね」
「ん? 私が父では不満かな?」
そう言って小首をかしげる仕草は確かにリアーネの親父だ。ああ…なんかこう、全身の力が抜けるっつーか……。
「ロライゼ様……」
がくりと項垂れた俺に、相変わらず手巾で鼻水を押さえてるらしいネサラが耐えかねた様子で笑い出した。
こいつが笑っただけでもよしとしとくべきなんだろうが、なんだかな。緊張感がなくなるのはどうしようもねえ。
「ネサラ、リアーネのことを君が受け入れようと、受け入れまいと、私が君の父だと思う心は変わらない。私はもう君がひっそり悩む時に気がついてあげることはできないが、私も君を愛しているのだということを、どうか忘れずいて欲しい。わかったかね?」
「……はい」
「私で力になれることがもしもあるなら、いつでも言いなさい。たとえばティバーンとケンカをしたあとは、彼の胸で泣くわけにはいかないだろうからね」
ロライゼ様の飾らない言葉にまた涙を拭ったネサラだったが、最後の一言にはしっかりと強い視線で答えやがった。俺も肝に銘じておかなけりゃならねえだろう一言を。
「それは大丈夫です。ティバーンとケンカをする時には、徹底的にやりますから」
こ、怖ぇ…! 徹底的にやるって、なにをだ!?
空の勝負だったら負けはしねえが、…いや、わからねえな。こいつが本気を出したら俺と互角なのはもう思い知った。
ケンカの内容にもよるが、もしも俺が浮気をしたとすれば俺は一方的に負い目を背負って戦う羽目になるわけで。
……………浮気はいかん。今初めて本気で思ったぜ。
「そうか。それなら良い。さあ、お茶を…おやおや、すっかり冷めてしまったね」
「淹れなおしましょう。せっかくぼっちゃまが帰って下されたのです。美味しく召し上がっていただきたいですからな」
ロライゼ様に手を引かれてネサラが立ち上がる。俺も遅れて立つと、涙を拭いたニアルチが笑ってカップを下げる。
それから俺たちはニアルチの淹れた美味いハーブティーを飲みながら、キルヴァスの様子と、フェニキスでの話をした。もちろん、夜のことは抜いてな。
ニアルチは気になったようだが、首尾よく行ったことは俺たちの様子でわかったんだろう。ネサラの見えない位置に立ち、安心した表情でにこにことネサラを見守っていた。
部屋を出たのはそれからしばらくしてからだ。
代わる代わるロライゼ様に挨拶して退出すると、待ちきれなかったんだろうな。廊下にリュシオンとリアーネ、それから苦笑するラフィエルとニケがいた。
どうやらもうこいつらを抑えられなかったってところか。
「ネサラ、ティバーン、大丈夫でしたか?」
「ネサラ、いたかった? かわいそう」
飛び寄ってきた二人にまとわりつかれて、慌てて赤くなった目を隠そうとするが、ばれねえわけねえだろ。
案の定、すぐに気がついたリュシオンが服の袖で目元を拭き、リアーネは白い脚が丸出しになるのも構わずドレスの裾をめくってやっぱり顔に押し当てようとして、ネサラが慌てて二人を止めていた。
「ティバーン……」
「ネサラは大丈夫だ。ラフィエル、おまえにも心配掛けたな」
そんな三人の姿を笑って見ていると、ラフィエルがそっと俺の背中を抱いた。秋の始まりを思わせる穏やかな緑の目が俺を映す。
「君も…大丈夫そうですね?」
「もちろんだ」
力強く頷くと、なにもかもお見通しのラフィエルがひっそりと微笑んでくれた。
――ああ、わかってる。おまえは俺の親友だ。ネサラに言えねえようなことがあっても、おまえにだけは零す弱音もあるだろう。
それも「わかっていますよ」とでも言うようにそっと頷いたラフィエルは、後ろに立つ強く美しい妻、ニケに手を差し伸べて仲良く寄り添った。
この日の夕食は、久しぶりに賑やかなものになった。
個人的にはその前にネサラといっしょに風呂に入りたかったが、それは断られちまったよ。いくら契りを交わしても、それとこれとは別なんだとさ。ニアルチに「式を挙げるまでは鴉の夫婦でもいっしょには入りませぬ」と言われて、真剣に式を挙げようと思ったぐらいだ。
仕方なしに別々に汗を流し、所狭しと俺たちの好物が並んだ食卓に着くと、明るい表情で帰って来たネサラに鷺たちは喜び、謡い、俺だけじゃなくネサラも久しぶりに酒を楽しんだ。
途中からはウルキと女たちに肩を借りたヤナフまで加わった。
ヤナフは久しぶりに俺と飲み比べをしたがったが、まだ傷が治り切ってねえからそれはできねえ。そう断ったらぶーたれて大変だったけどな。
だが、妙に元気がねえ。心配になって聞いたら、ヤナフが涙ぐみやがって慌てたさ。
だが、テラスに連れ出して理由を聞いた俺の胸は温かくなった。
俺たちがいねえ間に、グレイル傭兵団の連中が様子を見に来てくれていたらしい。ヤナフもウルキももうあいつらとダチだからな。喜んだそうなんだが……。
シノンが、いくつか酒樽を置いて帰ったそうだ。あとから見ると、その酒樽にはグレイル傭兵団の皆の名前が彫られていて、酒を託された鷹に話を聞いて二人で泣いちまったんだと。
「若くても飲めるらしいけどよ、百年経ったら琥珀色になって、もっと待ったらさらに味が深みを増すって……そんな酒なんだってさ。おれたちだけが残って、あいつらが逝っちまってもよ、酒は残る。名前があったら、いっしょに飲んでる気になるだろって……チクショウ、なんでベオクってのは早く死んじまうんだよ…!」
想い出を偲びたいんじゃねえ。いっしょにその時、空けて飲みたい。
それが本音だよな。俺にも気持ちはわかる。
……ベオクのダチを得て一番辛いのは、別れの瞬間じゃねえ。時の流れの違いを実感する時だ。
鼻をすするヤナフのそばにウルキも寄り添い、俺は黙ってヤナフときつい蒸留酒を数本空けた。
まだ道がわかれたわけじゃねえ。会いに行けばダチはそこにいるんだ。いっしょに過せる時間を大事にすりゃいい。
………そうとしか言えなかったさ。
「そうか。あの男らしいな」
「ああ。わざわざ来てくれたのに、俺たちは会えなくて残念だったぜ。一度こっちから会いに行きてえな」
結局、珍しくつぶれたヤナフはウルキが送って、俺も珍しく酔っちまったからよ、早々に退出してネサラの肩を借りて部屋に帰って来た。
久しぶりに広い寝台に転がって手足を伸ばすと、俺は水入りのグラスを持ってそばに腰掛けたネサラに向き直った。
「ティバーン、こいよ」
「ん?」
「ほら」
そう言ったネサラがぽんぽんと叩いたのは膝だ。……まさか、膝に座れって? いや、それは無理があるだろ。
一瞬アホなことを考えたんだが、ネサラは俺が遠慮してるとでも思ったのか、ぐいと力ずくで俺の頭を自分の膝に乗せた。
あぁ、なんだよ。膝枕か。
驚いたが、ネサラは気にした様子もなく俺の頭を撫でやがる。
意外に柔らかくて気持ちが良いな。……悪くねえ。
薄い絹の夜着越しに伝わってくる、ネサラの体温が俺を安心させた。
「明日…出発するって?」
「ああ。いつまでも遊んでいられないからな。必要な書類も一通り交換が終わってるし……ガリアとクリミアに顔を出してから行くつもりだ。交易のことでクルトナーガ王子もガリアに来るそうだから、礼ついでに詰めておきたい話もある」
「そうか。……しょうがねえな」
大きなため息をついて頭を撫でていたネサラの手を握ると、俺の口元に薄いグラスが当てられた。水を飲ませてくれようとしてんのか。
ここで口移しじゃねえのが淋しいが、それがまたネサラらしい。
「もっと飲むか?」
「そうだな。水差しごとくれよ」
「それは駄目だ」
この堅苦しいところもな。もう一杯水を飲んで、俺はネサラを懐に抱きながら寝台に転がった。
ネサラもこうされるのがわかってたんだろうな。なんの抵抗もなく翼をしまう。
そのまましばらくきつく胸元に抱きしめて、俺はしみじみとネサラの体臭を嗅ぐ。
涼やかな森の空気と、少しだけ甘い花の匂いはファヴィオラの香油だ。国外に出たらまたしばらく会えねえからな。今のうちに胸の中いっぱいに欲しい。
「……近々、イレースが来るらしいな」
「ああ。ヤナフを助けてもらった。本当にヤバかったんだ。礼をしなくちゃ俺の気が済まねえ」
「しかも、……ラグズ専門医の、コモンに弟子入りするって」
「一流の雷魔法の腕がなけりゃできねえ治療法があるんだよ。それを活かすためにも医者の道に進むのは良いんじゃねえか?」
俺は本気でそう考えて言ったんだが、ネサラの心配はべつの方向のことだったらしいな。深々とため息をついて言われちまったよ。
「安請け合いをしやがって。ヤナフの件は俺に責任があるし、一度もてなすために祝宴を開くぐらいは当然だと思う。だが、住み込むとなったら話はべつだ。イレース個人はいいヤツだとわかっているが、とにかく食べる量が多すぎる。わかってるか? スクリミルが下宿するようなものだぞ? あんた、その分の食料をちゃんと確保できるんだろうな?」
「お、おう。つまり、あれだ。毎日なにか俺が狩ってくるとも。責任を持ってな。イレースが医術を身につけるのは、いずれ大きな力になってくれる気がするんだよ」
「………セリノスで開業させるなら、診療報酬は食物だな。下手すりゃ現金より高くつくかもしれないが」
それでも「お断りだ」と言わねえあたりが可愛いぜ。
しみじみと俺の肩口に額を押し付けて呟いたネサラに笑って、俺はしなやかな身体を抱く腕に力を込めた。
「ティバーン……」
だが、ふと改まったように小さな声で呼ばれて腕の力を緩めると、ネサラがぽつりと言う。
「俺は…リアーネを泣かしたくない」
「おう、俺もだぜ」
「でも、割り切ることもできない」
そう言って零れた小さなため息まで甘い気がする。ひんやりした蒼い髪に口づけると、腕の中のネサラが小さく身じろいだ。
「政治的にとても良い方法なのはわかってるんだ。でも、リアーネの真心を裏切るような真似はしたくない。だから、今度帰る時に……返事をしようと思う」
「そうか。おまえがどんな答えを選んでも、俺はそれでいい」
「…………」
「公私共に俺の伴侶はネサラ、おまえだ。会いたくなったら俺を呼べよ」
ネサラが不安なく仕事に励めるよう、俺はセリノスを守る。
改めて心に誓いながら耳元に口づけると、小さく艶っぽい声が漏れる。ここでその気になって欲しいところだが、明日出発なら無理だな。
「……飛んで来るって?」
「おう。行くとも。心配すんな。浮気はしねえ。やりたくなったら、まあなんだ。ガキのころ以来だが、自分の手で我慢するさ」
真面目にそう言ったら、ネサラは一瞬黙って、それから笑って俺の左手を取った。
「じゃあ、俺はあんたをよろしく見張れって挨拶しておくべきかね?」
「そうしてくれるか?」
ランプの淡い光の中でネサラのおどけた顔が見える。ネサラはじっと俺を見つめたまま、俺の左手に唇を押し当てた。手のひらに、側面に、手の甲に、指先にも。
舐められたわけでもねえのにぞくりと来たぜ。……離したくねえなあ。
「時間が空いたら、会いに行く」
額に口づけて囁くと、ネサラがこくりと頷く。
「おまえも、帰れる時には帰ってこい。浮気するなっつったのはおまえなんだ。たまにはちゃんと泊まれよ?」
「わ…かってる」
ぐい、と腰を押し付けて理由を教えると、ネサラは上ずった声で答えてそっと俺の背中に腕を回した。
しばらくは身を固くしていたが、ゆっくりとネサラの身体の力が抜ける。完全に俺に寄り添うのを待って、俺は上掛けをめくってネサラを片腕に抱えたまま中にもぐりこんだ。
「おい、ランプが」
「あとで消す」
「ニ…ニアルチが来たら」
「もう知ってるさ。来ねえよ」
大体、俺たちがいっしょに寝るのは今さらじゃねえか。それなのに意識してくれるのはうれしいよな。
諦めたように静かになったネサラの頬を包んで瞼に口づけても、ネサラはなにも言わない。
その了解を得て、俺はゆっくりと唇を頬にずらし、片手で寝台脇のローテーブルに置いたランプを取って灯かりを消した。
思えば、振り回されてばっかりだったな。こいつはこいつで、俺に振り回されてばかりだと思ってるかも知れねえが。
だが………。
「ネサラ、もう寝ちまったのか…?」
今は、俺の腕の中にいてくれる。またすぐに飛び出しちまうとしてもよ。
ネサラの狸寝入りはわかっていたが俺は気付かないふりをして、ここぞとばかりに熱く囁いてやった。「おまえが好きだ」「おまえが可愛い」「早くいっしょに暮らしたい」――なんてな。
さすがに俺の熱意に折れたか、本気で眠くなってうわごとになったころ、そっと俺の背中を抱き返してくれたネサラの腕にしみじみと幸せを噛み締めながら……。
俺は、この意地っ張りの鴉の無事を、心からあらゆるものに感謝した。
END
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